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平成17年10月17日号
ISOWAビトの物語
 会社に製品あり、製品の影に人あり、人に歴史あり――。

 株式会社ISOWAを形成してきたISOWA人――ISOWAビト。その生きざまを追う時空を超えた旅へと、社長・磯輪英之がみなさまをお連れするこの連載。5回目の今回は、昭和40年代の高度経済成長期からISOWAの屋台骨を築き、会社風土を育んできた人々の話をご紹介しましょう。

 奇しくもいま世間では、”名古屋商法”が注目を集めています。ご存知のとおり、”名古屋商法”とは、「質素である」「経営が堅実」といった要素を持つ企業を指す言葉。これはそのままISOWAにも当てはまりそうです。でも、要素はそれだけではありません。

第2回 “ISOWAビト”を育む土壌

第2話 集う人、関わる人すべてを大切に思う環境

名古屋商法を体現

昭和50年頃に撮影された当時の工場全景(春日井市西屋町)。写真の左上から第1期、第2期、第3期と増築された。工場の屋根の色が違うのが特徴的である。】
 
昭和50年に初めてコンピュータを導入した時の起動式典の様子。コンピュータの起動を行っているのが現相談役の磯輪英一、写真中左から2人目が現会長の磯輪武雄、その左隣が室町二郎。 】
 昭和40年12月、ISOWAは全ての業務を春日井に移行した。その後、春日井の工場は会社の発展に応じて小刻みに増築。昭和44年3月に第2期工事が、昭和49年3月に第3期工事が終了した。工場の屋根の色の違いが、段階的な建て増しを今に伝えている。

 工場以外の大きな設備投資についても、ISOWAはきわめて慎重だった。例えば、工作機械に関して、基本的に外注(協力工場)でできることは全て彼らに任せ、どうしても無理な場合に限り自社で機械を購入して作業に着手するといった方針をとっていた。

 昭和40年代といえば高度経済成長期。にもかかわらず、ISOWAは需要を多めに見積もった設備投資は一切行なわず、可能な限り地味で堅実な経営をひた走った。現・会長の磯輪武雄は、その理由をこう語る。

 「まずひとつは、機械をご購入頂いたお客様のためです。“売りっぱなし”というわけにはいかない製品ですから、大切なのはアフターサービス。つまり、万が一、ISOWAが経営的に問題を起こし、お客様にご迷惑をおかけしては大変です」。

 大企業がバックについているなど、後ろ盾があるならいざしらず、自分たちだけが頼りの中小企業。慎重になるのも当然といえるだろう。

 「もうひとつの理由は、協力工場のみなさんとの協力関係です。自分たちだけで伸びていくより、共存共栄を図った。“餅は餅屋”といいますし、培ってきた関係を損なうのは、会社にとって良い方法ではないと考えたからです」。

 名古屋商法の特徴に「地縁を大切にし、義理堅い」という要素もあるという。この点から見ても、ISOWAはまぎれもない名古屋の企業といえそうだ。

 「“ISOWAさんは石橋を叩いて渡る”とよく言われていたのは事実。事を決めるにあたっては、たいへん慎重でした。しかし、やるときはやりましたよ」。こう話すのは、昭和34年にISOWAに入社した室町二郎(前取締役)だ。室町は、給与計算、売掛・買掛の計算にはじまり、生産管理や原価計算など、管理システムの構築を基礎、つまり、ルールづくりから手がけてきた。

 「昭和50年に初めてコンピュータを導入しました。当時は1台なんと5,000万円もしたんですよ。売上高が28億円の時ですから、大きな投資といえるでしょう。でも、経営陣はまったく躊躇しなかった。中長期で考えた場合の費用対効果が明らかだったからです。さすがだと思いましたね」。

 効果が見込めるものには投資を惜しまない――。しかし、どんなに世の中が財テクに走ろうと、その流れにISOWAは決して加わろうとはしなかった。

 「我々は機械の専門家であって、経済の専門家ではない。これが経営陣の口ぐせでした」。

 ISOWAが常に念頭に置いていたものは“無借金経営”だった。これは、前述のように頼れる後ろ盾が存在しないのが主な由来だが、財テクなどにわき目もふれず、本業に邁進さえしていれば成し遂げられるというわけではない。確固たる意志と実行力が不可欠。この役割を自らに課し、長年に渡って経理を手がけてきたのが武雄だ。

 「内部留保をいかに高めるか。つまり、会社の実態を数字の上でも良くすることに腐心してきました。満足できる財務体質を作り上げるまでに、15年ほどかかりましたね」。

 苦心した甲斐あって、ISOWAは製品のみならず、優れた経営状態でも注目を集めるようになる。「2年に1度、国税局の調査が入るんですが、ほとんど問題になる様な指摘はありません。それどころか、“もっと上手にお金を使いましょう”と言われる。珍しい会社ですよね(笑)」。

人を大切にする伝統

昭和45年にヨーロッパ出張時の現取締役営業本部長兼東京営業所長の尾崎南海男。
 取引先のため、協力工場のため、そして株主のため、強靭な経営体質を築いてきたISOWA。では、当時からの従業員は、会社に対してどんな印象を持っているのだろうか。昭和43年に入社し、現在、取締役営業本部長兼東京営業所長を務める尾崎南海男が興味深いエピソードを語ってくれた。

 「入社して、まだ何年も経ってない頃のこと。工場で、機械に据え付けるロールを1本ずつ検査していたんです」。

 ロールは1本100キロもある金属の塊。これを移動させる際、掛けていたロープが緩み、並べてあった別のロールの上に落としてしまったのだ。

 「おかげで、4本ほどのロールにキズを入れてしまいました。高価なパーツがいくつも使いものにならなくなってしまったわけです。もう目の前は真っ暗。“会社を辞めることになるのかな”とうな垂れながら、上役に謝りに行きました」。

 作業を命じた係長からは「なにやってんだ!」と怒鳴られ、課長からは「もっと注意してやらなきゃ」と大目玉を食らった。

 「でも、いまの会長からは“怪我しなかったか?”のひと言。予想外のことに、ビックリしました」。

 「従業員を大切にする社風、そして、人を思いやる気持ちというのはISOWAの伝統なんだと思いますね。もちろん、事件を大目に見てもらったから言ってるんじゃありませんよ(笑)」。

 集う人、関わる人全てを大切にする気持ち。これこそがISOWAビトを育んできた土壌に違いない。




   文中敬称略