平成17年6月17日号
第1回“株式会社”磯輪鉄工所の幕開け第1話 意思を継ぐものたちプロローグ・2005年3月、上海
【Box Dream】は、“速さ”と“実用性”を兼ね備えた段ボール用デジタル印刷機です。印刷スピードは毎分30メートル。数枚の極少ロットだけでなく、数百枚程度の段ボール業界で一般的な小ロットまでをフルカラーで現実的にこなします。従来の段ボール用印刷機のイメージを大きく覆したマシンと言えるでしょう。 みなさんからのお声を耳にして感じるのは、【Box Dream】がその名の通り、段ボールの未来に、そして、私たちの未来に夢を与えてくれるものであるということです。そんな段ボール機械を世に送り出すことができ、私は社長として、というよりも、ひとりのISOWAビトとして本当に嬉しく思っています。 同時に、【Box Dream】を創れる土壌を今日まで培ってきてくれた先人たちに対して、私は畏敬の念を禁じえません。彼らが歩んだ道のりは、あらゆる企業同様ドラマチックでロマンチック! 決して平坦な道のりではなかったのです。小さな町工場からスタートした名古屋の企業が、創業から83年という歳月をかけ、こうして海を渡り異国の地で、まさに会社のエポックメイキングと呼ぶにふさわしい新製品を発表している。 そう、ISOWAの新たな未来が切り拓かれたいまだからこそ、先人たちが開墾したその一本の道を、さかのぼってみたいと思いました。いかがですか。皆さんも私とタイムマシンに乗り、一緒にちょっと昔へ旅に出てみませんか? さあ、出発です。時代は私が生まれる10年ほど前、太平洋戦争が終わりを迎えた頃までさかのぼります。ISOWAビトの1人目、現相談役にして2代目社長、そして私の父でもある磯輪英一を軸にした物語です。
「今後、ISOWAを伸ばしていくには、体系だった専門教育による知識が不可欠」 苦労に苦労を重ねた末、実務から技術を体得してきた源一は、その必要性を誰よりもよく知っていたのだ。そして、源一は父親として、同時に経営者として、ISOWAの未来を早い時期から英一に託していたと言えるだろう。当時、ISOWAは太平洋戦争による度重なる障害により倒産の危機に瀕しており、英一の入社が控えていなければ、源一はISOWA再出発に踏み出す決意をしなかったかもしれない。歴史にifはつきもので、ISOWAもまた然り。創業当時のこうしたダイナミックないきさつは、回をあらためて後述したい。
“株式会社”磯輪鉄工所の誕生
家庭環境を少し聞いてみよう。兄弟6人、さぞ賑やかな子供時代を過ごしただろうと想像しがちだが、実際にはその逆で「子供心に気遣いが多く、幸せな生活とは言えなかった」と英一は言う。1番の原因は、小学校5年生のとき、母親を亡くしたことにあった。 「母の愛情を感じた憶えがありません。これは私だけでなく、兄弟みんなが少なからず感じていることだと思います。ただ、母がいない分、祖母が母親代わりになって、ずいぶんよく面倒を見てくれました。だから、“幸せでなかった”などというと罰があたりますね。祖母には本当に感謝しています」。 会社全体をひとつの家族のように大切にするISOWAの社風は、経営者のこうした家庭環境が影響しているのかもしれない。 話は昭和24年に戻る。 英一は、当時、ISOWAでは誰も知らないような最先端の知識を携え入社したが、会社としての仕事の半分以上は依然として大隈鉄工所の下請業務だった。この頃の従業員数は20名弱で初任給は日給90円。基本的な労働時間は8時間だったが、10時間以内で帰れることは稀だったという。 翌25年に、兵役により退社していた山下政夫がISOWAに復帰。山下は後に常務として英一を支えたISOWAビトのひとりである。同年6月、朝鮮動乱が勃発し、これによる特需のおかげで、瀕死の状態だった日本経済は急速に息を吹き返した。ISOWAも本来の仕事である紙箱機械の製作依頼が舞い込むようになり、業績は次第に回復。これを受け、昭和27年12月、資本金300万円で『株式会社磯輪鉄工所』が設立された。
法人化によって、ISOWAは新たなスタートラインに立ったわけだ。
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