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平成17年7月17日号
ISOWAビトの物語
 会社に製品あり、製品の影に人あり、人に歴史あり――。

 株式会社ISOWAを形成してきたISOWA人──ISOWAビト。その生きざまを追う時空を超えた旅へと、社長・磯輪英之がみなさまをお連れするこの連載。2回目の今回は、前回に引き続き現相談役・英一が入社した昭和20年代の名古屋が舞台です。

 戦後の社員復帰や朝鮮動乱による特需も重なり、本来の紙箱機械の製作依頼が順調に舞い込んで業績が回復するなか、現在の前身ともいえる「株式会社磯輪鉄工所」を設立するなど、新たなスタートラインに立ったISOWAビトたち。初の海外輸出という好機を迎えた彼らに、文字通り荒波が襲い掛かります。

第1回“株式会社”磯輪鉄工所の幕開け

第2話 成長の萌芽

段ボール機械への移行

山下印刷尼崎工場へ納入した機械と同型のL型コルゲータ
 
父英一、母幸子とともに幼少の英之
 終戦後、アメリカの進駐軍が大挙して日本に押し寄せ、その時、多くの物資が段ボール箱で送られてきた。品物の輸送に段ボール箱は便利な上、それまで一般的に使われてきた木箱に比べ木材資源の節約にも効果が高い。こうした時流と日本経済の拡大により、段ボールへの需要が急増した。

 段ボールメーカーは、段ボール機械の性能アップを要求。これに対応すべく機械メーカーは研究を重ね、段ボール機械の大型化・高速化(人力からモーターへ)、新機種の開発(コルゲータ、プリンタ、スロッタなど)に成功した。

 当時、ISOWAで設計を担当していたのは創業者・源一の後継者、英一(現相談役)だった。英一は、得意先が購入した他社の機械を見せてもらったり、業界誌を読んで勉強しながら、新たな機械の構想を練っていた。そうした中、ISOWAの重心を紙器機械から段ボール機械へと大きく移行させる出来事が起こった。昭和29年12月、大阪市の山下印刷紙器株式会社から、L型コルゲータを受注したのである。(これ以前にISOWAは簡易型コルゲータを森紙業京都工場に納めており、この実績を買われて山下印刷紙器より本格的コルゲータの受注に成功したのである。)

 当時、段ボールメーカーの悩みは、コルゲータへの莫大な設備投資のほか、機械納入後から完全稼動までに数カ月を要するタイムロス、そして、カッタ部での切断誤差にあった。これらを充分に研究した上で、ISOWAはL型コルゲータを翌昭和30年6月上旬に完成させた。

 昭和30年7月21日付の紙器新聞(所在地大阪、社長中島吉太郎氏)が、この時のマシンテストの様子を伝えているので、そのまま引用してみよう。

 『爾来細心の注意を以って、製作に腐心中であったが去る6月上旬完成を見るに至った、組立工場に於て発注会社の重役はじめ技術陣立会の上公式試運転を行い好調子の稼動となって、絶賛を博した、この終了につづいて18日、19日は東西段ボールのメーカー諸氏百数十名、業界新聞記者臨席の下に公開試運転を行い製段及び切断がスムースな活動とカッタ誤差の絶無には、業界の専門家も一斉に讃嘆の辞を惜しまなかった。……』

 公開デモンストレーションは、諸刃の刃だ。対外的なアピールには絶好のチャンスだが、万が一、招待客の目の前で不具合が出たとしたら、全国的に恥を晒しかねない。ISOWAは大きな賭けに出たのだ。結果は記事の通り大成功で、関係者一同はホッと胸をなでおろすとともに、大きな手ごたえを得た。

 時を同じくして、同月27日、英一に待望の長男が誕生。現社長の私、磯輪英之である。ISOWAが新しい方 向へと舵を切り始め、士気上がるまさにその時に生を享けたことを思うと、ISOWAビトの1人としてあらためて襟を正したい気持ちです。

”プリスロのISOWA”始動

当時、トーモク綱島工場で稼働中のプリンタスロッタ
 
伊勢湾台風での被害
 ISOWAが紙箱機械の製作を全面的に中止し、営業品目を段ボール機械一本に絞った昭和31年(1956年)、世の中は俗にいう“神武景気”。段ボール業界も好調で、ISOWAは順調に業績をのばしていた。当時、業界での地位は、専業メーカーに限って見た場合、大阪の丹羽鉄工所、東京の丸松製作所、埼玉の内田製作所に次いで第4位につけていた。同年8月、臨時株主総会で、製造を管理する山下政夫と資材を管理する服部福太郎の2名が取締役に就任。企業として組織化への一歩を踏み出した。

 翌年になると、景気は下降線を辿り始めたが、段ボール業界は不況知らずの“陽の当たる産業”。各社が急いだのは、技術のレベルアップで、当時、コルゲータとともに注目されていたのがプリンタ・スロッタ(以下プリスロ)だった。日本中にまだ10台ほどしか稼動しておらず、ISOWAは顧客のリクエストに従い、昭和30年頃から『ジュウセット付横通式2色印刷機』という名で、ごく初歩的なものを製作していた。“プリスロのISOWA゛の出発点である。

 昭和32年頃から、ISOWAは、新設計のプリスロの開発に着手した。付き合いの深かった大隈鉄工所の技術部から独立し設立された大橋設計事務所に協力を仰ぎながら、英一が設計を手がけたプリスロ『6R』と『7R』が完成。翌昭和33年の初め、『6R』が名古屋の東海紙器に、『7R』は同年春、1号機が東缶興業宮原工場に、2号機が大阪の東洋段ボールに、3号機が東洋木材(現トーモク)の横浜綱島工場にそれぞれ納入された。これらの企業は、当時業界では飛ぶ鳥を落とす勢いの会社ばかり。こうした企業から、まだ名古屋のいちローカルメーカーだったISOWAの製品が競って買い求められたわけだ。

 『7R』は、翌昭和34年の秋に、プリスロ輸出第1号機として、大阪の野村貿易を通じて初めて海を越えようとしていた。フィリピンだ。販売先のルビー社は、『7R』の価格と品質の優れたバランスを世界に先駆けて高く評価してくれた企業である。 ところが、船積みを阻む出来事が勃発する。名古屋港での船積みの直前に、伊勢湾台風が襲ったのだ。港の倉庫で保管されていた『7R』は、暴風雨と高波、高潮によって海水をかぶってしまった。

 この時の様子を英一は振り返る。

 「急いで手入れをしなきゃならない。トラックの荷台に10人近い人間が乗って、台風でずたずたになった道なき道を走り、なんとか名古屋港までたどり着いた。機械の梱包を解いて機械をばらし、入り込んでしまった海水をみんなで拭き取った。1日では終わらず、何日も通いました。ようやくのことで再梱包し、出荷したことを、今でも生々しく思い出します」

 多くのISOWAビトの総力で、この難局を乗り切った後、英一は自らもフィリピンへ渡った。現地で『7R』の技術指導を行なうためだ。これが、ISOWA海外出張の第1号となったのである。




   文中敬称略