平成17年8月17日号
第1回“株式会社”磯輪鉄工所の幕開け第3話 チャンス到来技術導入期への第一歩
「ISOWAと同じ時期に、トヨタ工機さんも人を募集していたんですよ。ISOWAに決めた理由はね、まず、家から近くて自転車で通えるから(笑)。当時は本当に小さな会社だったけど、包装業界には将来性があると感じたからです」と神田は入社の経緯を振り返る。 実際にISOWAに入ってみて、驚いたことが2つあったという。 「ひとつは、プリスロの機械の大きさにビックリ。紙を扱うのもバカにできないな、と思いましたね」。 もうひとつは、段ボールに関する資料や機械に関する資料がほとんど存在していなかったことだ。まさに暗中模索、手探りの状態の中、ISOWAの開発と改良が続いた。 神田の手によって改良されたプリスロ『7R』は、『7BR』と名称が改められ、京都の森紙業に1号機が納入された。続いて、昭和35年にCWS型コルゲータを完成。さらに、それまで手作業だった給紙を自動化する『ケリ込み式自動給紙装置』で、段ボール生産工程の一大改革を成し遂げた。 来るべき発展に備え、ISOWAに職制が導入されたのもこの年である。社長・源一以下、専務と経理部を英一が、資材部を服部、営業部を山下、製造部を梶浦が、そして技術部を神田が、それぞれ責任者として管理することになった。加えて、翌昭和36年に源一の3男・武雄(現会長)が入社。昭和38年には太田英二が入社するなど、次代のISOWAの屋台骨を支えるISOWAビトたちが、まるで何かに引き寄せられるように、同じ旗の下に集まりつつあった。
プリスロのISOWA”の地位を確立
後から考えれば、三菱・ラングストンの機械は、アメリカと大きな開きがあった日本の段ボール産業の技術向上に大きく貢献したわけだが、当時の機械メーカー各社が、強力なライバルの出現に危機感を強めたのは言うまでもない。もちろん、ISOWAも例外ではなかった。 三菱が新型の高性能プリスロを発売する一方、ISOWAは時代遅れとなりつつあった『6R』『7R』『7BR』に依然頼らざるを得ない状況で、ISOWAビトたちの心中は穏やかではなかった。殊に、実質的にはすでにリーダーとしての役割を背負っていた英一のプレッシャーは大きく、「眠れない日々が続いた」と後に語っている。 そんな中、得意先である京都の森紙業が三菱の新型プリスロを導入したという知らせが飛び込んできた。これを好機と森紙業の森一夫社長にお願いし、技術担当の神田が工場に出向いて、三菱のプリスロを見学させてもらう。普通なら中々見せてもらえない所を森社長に依頼できたのは、長年にわたり構築してきた森紙業との深い信頼関係の賜物といえるだろう。 当時、段ボールメーカーが満足できる性能を持ったプリスロは、三菱以外存在しなかった。しかし値段が高い。ISOWAが着目したのはそこだった。「三菱の機械に匹敵する性能を持ち、なおかつ安く販売できれば必ず売れるに違いない。」 この目論見は見事に的中した。神田がそれまで暖めてきた新しい構想の元に開発したプリスロ『PS−2』と『PS−3』は、三菱の機械に手が出なかった段ボールメーカーから大喝采を浴び、迎え入れられた。名実ともに“プリスロのISOWA”の地位が確立した瞬間だ。
大成功の要因は、神田の合理的な設計の元に、これを製品化できるだけの技術力をISOWAが確立していたこと。ISOWAビトたちは、確実にチャンスを掴み、それを活かしきったのである。
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