平成17年9月17日号
第2回 “ISOWAビト”を育む土壌第1話 ローカルメーカーからの脱皮工場を移転し、増産体制に
愛知県春日井市西屋町。現在、ISOWAが本拠を構えるこの地に、初めて工場が建設されたのは昭和35年のことだ。いわゆる“岩戸景気”が訪れた昭和34年、前年比2倍以上の売上を記録したISOWAは、名古屋市北区指金町に約130坪のコルゲータ組立工場を建設していた。 それが例えば、顧客の都合で機械の納入が1週間延びただけで、次の機械を組み立てる場所に窮してしまうような状態になっていた。建設から1年も経たずに、である。この時期、日本経済が、そしてISOWAが、いかに急激に成長していったかがお分かりいただけるだろう。 当初は工場の改築が検討されたが、作れば作るだけ売れるような状況で、工事による生産量のダウンは致命傷になりかねない。受注急増と機械の大型化に対応するため、大型の新工場の建設が決まった。急遽、候補地探しが始まり、工場を誘致していた春日井市の土地3件を検討。名古屋からの移転に際して通勤の利便性と、将来に向けた拡張性が決め手となり、昭和35年1月、春日井市西屋町の土地2772坪を購入した。 工事開始は同年3月で、5月には300坪の組立工場と160坪の機械工場が完成。8月に第一陣として製造部が移転する慌しさだった。“イケイケムード”溢れる時代背景があったとはいえ、この素早さは特筆に価する。“スピード”はISOWAのお家芸、伝統といえそうだ。 規模は急速に拡大した。しかし、それでもISOWAは依然として名古屋地区のローカルメーカーにすぎなかった。全国メーカーへと飛躍するには、段ボールメーカーの絶対数が多い東京市場への参入が不可欠である。ISOWAが東京進出を決めたのは、昭和36年のことだった。 めぐり合わせの妙とでも言おうか、まさに絶妙のタイミングで、同年、創業者・磯輪源一の3男・武雄(現会長)が、日本大学理工学部を卒業し、ISOWAに加わった。翌37年9月、東京都台東区上根岸町に東京出張所を開設。その所長として白羽の矢が立ったのが、東京に居住歴のある武雄だったのである。
3人からスタートした東京出張所、そして大阪へ
東京でのシェア拡大に採用した方法は大きく2つ。ひとつは、関東地区の既存の顧客への徹底したアフターサービスだ。 「終業後、つまり、機械が止まる午後5時を過ぎる頃になると、作業服に着替えてライトバンに乗り、お客さんの工場を回っていました。これが“夜の部”(笑)」。 もうひとつが、“昼の部”の営業回りだ。「職業別電話帳で段ボール会社を調べ、1日5社をノルマとして自分に課し、片っ端から訪ねていきました。もちろん、始めのうちはどこも門前払いでしたけれどね」。 だが、こうした地道で誠実な活動が実を結んだ。商品である段ボール機械自体の質の高さと相まって、ISOWAの評判はクチコミで業界内に浸透していった。 「とにかく、無我夢中でした。スタッフの朝食や夕食まで作っていたこともあるし(笑)。今でこそ、いろいろよくやってたな、と思いますけれど、大変だと感じたことはなかったですね」。 東京出張所開設から約1年半後の昭和39年5月、もう一方の巨大市場・大阪にも出張所が開設された。所長に任命されたのは、昭和38年入社で、神田とともにプリスロ『PS-2』と『PS-3』の開発に尽力した太田英二だ。 「大阪出張所も東京と同じく、サービスの男性と事務の女性に私の3人でスタートしました。最初の事務所は、アパートの2階のひと部屋でしたね(笑)」と太田は当時を懐かしむ。しかし、先方から相手にしてもらうまで、すなわち、信頼関係を築くまでが大変だったという。では、太田はどのようにして大阪のマーケットに切り込んでいったのだろうか。 「交際費を、当時の社長から叱られるほど使いました(笑)。接待マージャンでトップの人たちと仲良くなって(笑)。それはともかく、やはり、真面目に、誠実に、ですね。つまり、商売として当たり前のことをキチンと続けたわけです」。 太田は技術畑出身であることも手伝って機械に精通しており、自社の製品だけに限らず、お客様からの質問に対して即座に、かつ広く深く返答ができた。このことが、信頼感の醸成に大いに役立ったという。また、太田のもうひとつの“当たり前”が、「お客様の利益に反する機械は売らない」ということだ。 「お客様とは長い付き合いになるし、長い付き合いにしなきゃいけない。だから、機械を入れる必要がないと思えば、そういうふうにアドバイスします。おかげで信用してもらい、工場のコンサルティングを任されたこともありました」。
ISOWAビトたちの地道な努力によって国内での販売網は着実に拡がり続け、ISOWAは全国メーカーとしての道を歩み始めたのである。
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