平成17年12月17日号
第3回 “ISOWAビト”海外への布石第2話 “ISOWAビト”海外へ遂にジェネラル社と提携! しかし……
「ニューヨークのホテルから1週間、毎日バスに乗ってニュージャージーのジェネラル社へ通いつめました。真冬だったので、本当に寒かったですね。でも、手ぶらで日本に帰るわけにはいかない。“なんとしてでも”という気持ちでした」。 1週間を経て、遂に英一の熱意がジェネラル社の幹部首脳陣を動かし、交渉が成立した。昭和39年3月、ISOWAはジェネラル社と相互販売提携を締結。同年5月にジェネラル製セミオート・グルアーLGS型の輸入販売を開始した。同機は作業者1名でステッチャー10台分相当の性能を持ち、価格はおよそ500万円。その後、ISOWAでは、政府の認可が下りると同時に販売提携を技術提携に切り替え、LGSの国産化に着手。20〜30パーセントの低価格化に成功したが、販売台数は予想したほど伸びず、提携の効果はあまりないように思われた。 ところが、この提携は、意外なところでISOWAに大きなメリットをもたらすことになる。それは輸出。ジェネラル社のラインアップにはプリスロが存在していなかった。そこで、アメリカでの販売の可能性を打診してみたところ、「ぜひ、扱ってみたい」という返事が戻ってきた。ISOWAのアメリカ進出が決定した。 「販売促進強化の一環として、特に輸出にも力を注ぐ。輸出の最大目標は、今期中にアメリカを我が社の市場の一部とすることである。今後継続的にアメリカ市場が我が社にとって安定市場となるようジェネラル社を代理店として緊密な連絡をとる」。 これは、追って定められた昭和41年の経営方針の一文だ。同年10月、アメリカ向け輸出プリスロ1号機が船積みされ、12月初頭には当時の技術部長神田が渡米。約1カ月間に渡って据付と試運転、技術指導を行なった。 性能と価格のバランスに優れるISOWAのプリスロ・PS-2は、アメリカでも順調に売上げを伸ばしていった。 「ジェネラル社が“月1台の輸出を2台に増やせ”と言ってくるようになった。しかし、これに応えると国内が品薄状態になってしまう。なんとかなだめながら、生産ペースを守っていましたね」。(英一) 経験を活かし、主導権を握ったワード社との技術提携
「ところが、ダイ(抜型)とウレタンのクッション材が上手く作れなかったんです」。 昭和40年頃、日本でロータリ・ダイカッタを作っていたのは東京の丸松製作所のみ。この分野に進出するには“今”しかなく、このタイミングを逃せば絶好の商機を逸してしまう。そこでISOWAは、再び海外に目を転じ、アメリカのワード社の技術に狙いを定めた。 「ワード社に注目した理由は、将来主流になると私が考えていた“ソフトカット方式”を採用していたからです」。 “ソフトカット方式”は、抜型用の刃物を受け止める下シリンダがウレタン等のクッション材で覆われている。これに対し、丸松が採用していた“ハードカット方式”は下シリンダが硬度の高い鋼でできているため、自由度が損なわれてしまうわけだ。 昭和41年の春、英一は再び渡米し、メリーランド州のワード社を訪れた。当時のワード社は、ロータリ・ダイカッタのトップメーカー。そのため、ジェネラル社以上に難しい交渉が予想されていた。しかし、ワード社は会社としての歴史が浅く、提携の経験もなかったため、ISOWAが話し合いをリード。この結果、たいへん有利な提携条件での契約締結に成功した。 ワード社との提携によって開発に成功したISOWAのロータリ・ダイカッタは大ヒット。瞬く間に、プリスロとの“二枚看板”を形作るまでに売上を伸ばした。 商社任せだった貿易業務を自社で
貿易部の開設から3年後の昭和44年に入社。以来、貿易一筋に歩んできたISOWAビトが、現在、一索瓦包装機械(上海)有限公司の総経理を務める鷲野桂だ。入社1年目、弱冠23歳の時、鷲野は海外出張を命じられた。 「“ひとりで東南アジアへ営業に行ってこい”と。それで1カ月かけて、台湾、香港、インド、シンガポール、インドネシアを回りました。初めての海外で、大袈裟ではなく、出張中に10キロ痩せましたよ(笑)」。 鷲野は当時を懐かしそうに振り返る。 「もちろん、1台も注文は取れませんでした。でも、経営陣はそんなことを期待していたわけではなかった。つまり、経験を積ませてくれたわけです」。 以後、英一や神田耕作の海外出張にもたびたび帯同。今日、200回に及ぶ渡航歴を数える鷲野は、ISOWAの海外戦略についてこう語る。 「ISOWAには先見の明があり、それが常に製品作りに活かされてきたことが大きい。でも、つまるところは“人”。相談役や神田さんを慕う声が海外から今も頻繁に聞かれるのがその証といえるでしょう」。 |