平成18年3月17日号
第5回 “ISOWAオリジナル”を伝える人たち第2話 “ISOWAオリジナル”を創るためにライバルの倒産とオイルショック
こうして、ラングストン社は三菱重工と、S&S社は伊藤忠と、そして、コッパース社はISOWAといったように、世界のビッグ3はそれぞれ日本のメーカーと手を結んだ。つまり、ISOWAは否応なしに世界の流れの中に巻き込まれることになったわけだ。 戦後、20名ほどで再スタートした会社が、わずか20年で全世界を相手に商売をするまでに成長を遂げたまさにこの時期、ライバルでもあり、目標でもあった企業が、その役割を終えた。昭和47年9月1日、丹羽鉄工所が大阪地方裁判所堺支部に会社更生法の適用を申請したのだ。負債総額はなんと20億7000万円。専業メーカートップの倒産は、業界を、ISOWAを震撼させた。 さらに翌年の初め、第4次中東戦争の影響による石油危機が、昭和46年のニクソンショック(ドルショック)から立ち直りかけていた日本を襲う。全ての日本企業が試練の時を迎え、それはISOWAも例外ではなかった。 段ボール業界が望む機械を創る昭和30年代の半ばから、ISOWAの実質的な経営は英一が司っていた。“社長の座を英一に譲りたい――”。常々こう漏らしていた源一の気持ちは、昭和44年の藍綬褒章受章を機に高まった。翌々年の5月、設立20周年の節目を迎えたタイミングで、源一は会長に就任。代わって英一が代表取締役社長についた。「僕はなにも難しいことを言うつもりはない。ひとりひとりが自分の仕事に全力をあげ、一丸となって、いい機械をこしらえる。たったこれだけだ。これができれば、会社にとって一番大切なお客様の信用が得られるんだよ」 こう言い残し創業者源一は現役を退いていった。おりしも不況期にISOWAの舵取りを任された英一は、次のような方針を第一義に打ち出した。 “多様化する顧客のニーズ、短くなる一方の機械のライフサイクルを先取りして、新技術・新製品を積極的に開発し、サービスも迅速におこなうこと”。 創業の精神である“技術第一主義”を推し進めることで、活路を見出そうとしたわけだ。 当時、日本の段ボール業界では、合理化、競争力強化、人手不足への対処などが問題となっており、これらを解消できる機械が求められていた。そこでISOWAでは、省力化を進め、無人化をも視野に入れた画期的な完全自動化セット装置「INAC(アイナック)」を開発した。 技術を追求する社風に惹かれて
同年に入社し、ISOWAビトのひとりとなったのが、現在、ISOWAエンジニアリングのサービスグループでマネージャーを務める竹川良一だ。 「実は五洋建設に就職が決まっていたんです。でも、どうしても機械の設計がやりたくて退職。ISOWAに“転職”しました(笑)」 「技術を志す人間にとって、当時からISOWAはすごく魅力的だった。働いてみてわかったのは、実に個性ある人たちが歴史を切り拓き、実績をつくってきたということ。現相談役、現会長はもちろん、神田さんや太田さん、藤田さん、早矢仕さん、NC制御の足立さんがその最たる人たちでしょう」 先に紹介したINACは、残念ながら時期早尚だった。そして、“NC制御の足立さん”の登場も昭和54年まで待たなければならない。 現顧問の足立宇央は、名古屋大学の電子工学科を卒業の後、昭和38年、大隈鉄工所(現オークマ)に入社。工作機械の制御を手がけてきた。慣れ親しんだ環境を捨ててISOWAビトの一員となったのは、ひと言でいえば“やりがい”だったという。 「段ボール機械は工作機械に比べて遅れていたんです。それだけに、自分が役に立てる領域がたくさんあると感じた。なんとしてでも電子部門を強化したいという経営陣の熱意にほだされたわけです」 足立は、段ボール機械全般のNC化を達成し、管理装置にもその才を発揮した。 「初代スリッタスコアラーNSFを納めたときは、まだ取扱説明書もできてない状態。段ボールシートの上で仮眠しながら一所懸命書いて、お客様に“とりあえず、これで動かして下さい”と(笑)」 「新しい機械を設計して、最初に動かす緊張感というのはたまらないものがあります。温かい目で見てもらい育ててもらった。そうした面は大きかったと思いますね」 文中敬称略 |