平成18年4月17日号
第6回 ISOWAの今、そして明日第1話 21世紀に向かって渡米、そして、サラリーマン時代を経て
コッパース社は、当時、世界三大段ボール機械メーカーのひとつで、600人ほどの社員を抱えていた。技術力をはじめ、いろいろな面に秀でており、それは、まだ実際にISOWAで働いたことがなかった私の目から見ても明らか。また、経済状況はカーター大統領の下で振るわない時期だったものの、アメリカという国そのものが、まだ輝きをはなっていた。見聞を広めるには、これ以上のものはなかったといえよう。 ただし、歓迎してくれるという回答を得て渡米したにもかかわらず、いざ、コッパース社に出向いたら、技術の人間から「おまえ、スパイに来たのか?」と、真剣に言われたのには閉口した。どうやら、日本のISOWAという会社と技術提携していることを知らない社員も多かった様子。他の部署の人たちがたいへん友好的で、皆と仲良くなれただけに、逆に、深く印象に残る出来事だった。 帰国後、大学を卒業した私は、トーメンに就職した。商社を選んだのは、営業がやりたかったから。現相談役の父親にとって、私がISOWAに入る前に、他所の会社に勤めることに関しては、賛成半分、反対半分の気持ちだったようだ。途中、何回か「帰ってこい」と言われながら、私は当初の宣言通り、5年間をトーメンで過ごした。 つくば科学万博の年、ISOWAビトに
「朝日新聞社がNECのパビリオンで、衛星通信を使ったニュースの配信を行ないました。この“新聞”の印刷機に使われたのが、テンションをコントロールする私どもの『インフィールド装置』。注目度抜群のパフォーマンスでしたから、縁の下の力持ちとして誇らしかったですね」と、同社営業/サービスグループ現統括取締役ディレクターの山本敏正は当時を振り返る。 (株)イソワ・フーパースイフトは、昭和47年に発足した、ISOWAとコッパース社との合弁会社だ。世話になった企業と深い関係のあった会社が、私の節目の年に、大きなイベントで活躍している──。私は、大きな縁を感じずにはいられなかった。 ISOWAに入ることに抵抗はなかった。子どもの頃から「大きくなったらISOWAの社長だ」と周りからいつも言われていたし、海外を相手に大きな仕事がしてみたい、それができる環境があるなら、ぜひチャレンジしてみたい、とも考えていたからだ。 続いて磯輪保之がISOWAに入社
昭和54年に早稲田大学を卒業した保之は、トヨタ自動車に就職した。理工学部の機械科出身者にとって、製造業に勤めるのは自然な流れだったという。 「ちょうど第2次オイルショックの後で、就職はとても厳しい時期でしたね。ISOWAに入った頃は逆で、景気が上向き加減になってきた時だったと思います」。 現在は、営業を担っている保之だが、入社後は長らく技術畑を歩んできた。 「この連載にも登場した神田さんに何年間かくっついて教えてもらいながら。海外にも一緒に行きましたね。半年間、据付のためにタイへ行っていたこともあります。まあ、修行のようなものですね」。 ISOWAで経験を積んだ保之が、最初に任された部門はプリスロだった。 「私が担当した当時は競合他社も勢いが出てきて、なんとかしようということになったわけです」。 “今までにないタイプのプリスロを作ろう!”。研究と試行錯誤を重ねたチームは、それまで7本必要だったロールを2本で済ませる一大革新に成功した。 「それが世界初のスーパープレス『エクシード』。この流れが、後の『スーパーフレックス』、『ハイパーフレックス』へと発展していくわけです」。 保之は、のちに2度のPL法裁判のための渡米もこなしている。 「メーカーの代表として証言するためです。アメリカは労災もなく、訴訟社会ですから、“怪我した”となると、すぐ訴えてくる。あらかじめ弁護士とレビューをして、証人喚問に臨む。クタクタになりますけど、使命を感じて、やってきました」。 ISOWAの遺伝子は、次世代へと確実に受け継がれている。文中敬称略 |