平成18年7月17日号
第2回 自然からの学びをもとにナイジェリアでのコルゲータ据付
「モンキースパナというとね、周りの人達は近くにいる本物のモンキーを指差すんですよ。あれには参ったなあ」 言葉が通じない中、ほとんどの説明は身振り手振りで行った。ワイヤーの代わりにロープしか手に入らないなど、事情の異なる遠方の異国で多くの苦労があった。日本では馴染みのないことであったが、機械がなかったために自分の手で糊をかき混ぜたりすることもあった。ナイジェリアでは、1回のスコールで数十キロにわたり河の流れが変わってしまう光景も目にした。 自然に対して、安部は子供の頃から深い思い入れと畏怖を抱いていた。現在の佐久間ダムがある近くに生まれ育ち、天竜川を舟で下り帰りは舟を引いて帰るという毎日を送っていた。自然のものを用いて遊び道具を作ることからが遊びだった。就職した名古屋では戦争末期に三河地震に遭い、住居の近くの大地が裂け湾曲して行く光景を目にした。 戦時中、野砲やゼロ戦のクランクの加工をしていた経験を基に、昭和33年にISOWAに入社した。機械においては自然の法則を大切にすることを心がけ、機械の不自然な動作については素直に疑問を投げかけた。当時設計部の部長だった神田、工場長だった大石らとは、やりあう事もありながら助け合う、良い仲だったという。 夢のシングルフェーサ
そんな各地への出張と同時に、常に機械に触れている経験を生かし、新しい機械の誕生にも携わった。印刷機では、当時段ボール機械では用いられていなかったアニロックスロールを利用できないか、試行錯誤を重ねた。インクの転移具合に関する課題がなかなか理論では解決できない状況だったが、ひたすら色々な形状を試すことで実用の道を見出した。 様々な開発経験の中で、安部の記憶に深く残っているものがある。段ボール機械で長年夢とされていたノーフィンガのシングルフェーサの開発である。それまでのシングルフェーサにとって、紙のガイドを行うフィンガはなくてはならないものであったが、最も壊れやすい部分でもあった。安部も昭和40年代頃から機械据付に赴く度に、フィンガのないシングルフェーサを望むお客様の声を聞いていた。そんなお客様の声にいつかは応えようと、頭の中で機械の構想を膨らませていた。 紙が力の流れに逆らわずに通るロールの配置をすれば実現は可能であった。 しかし、次世代の機械を作っていく上で安部の鋭い勘はなくてはならないものだった。理論では表しきれない直感は、設計部の協力を得ることで次第に形を成して行った。その後、段ロールの細かい改良なども経て昭和51年、夢のシングルフェーサは誕生した。解決案を考えすぎてうつらうつらとした時、ふっと我に返る瞬間によくアイデアを思いついたという。互いに仲の良い雰囲気がよかったと語るように、すぐには説明がつきにくいような安部の感覚を信頼してくれた仲間達の支えも大きかった。 新しい時代に思うこと
「どこの国でも言葉は難しかったが、身振り手振りで頑張れば何とかなるもんだ。ナイジェリアに咲いていた真っ赤なブーゲンビリアは今でも記憶に残っているよ」 日本各地の出張にも赴いている。中でも印象に残っているのは、関西地方のお客様の下で経験した機械据付である。 それでも、と続ける。 年齢を重ねて、考古学や天体物理にも少し関心が出てきたと話す。昭和の時代、湯川秀樹の中性子理論を知ったときには、やはりと思ったという。 80歳を過ぎた今でも安部は自然への純粋な驚きを忘れていない。 |