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平成18年8月17日号
ISOWAビトの物語

 会社に製品あり、製品の影に人あり、人に歴史あり――。

 株式会社ISOWAを形成してきたISOWA人――ISOWAビト。

 第3回目は、梶田治三と松井尋喜、2人のISOWAビトが織り成す物語。

 それぞれの思いを胸に仕事に励み、挑んでいく。

 やがて思いを共有するまでに至る道筋を2人が今、語りだす…

第3回 それぞれの道、お客様と共に

始まりのとき

梶田と松井は現在、同じコルゲータグループに所属。これまでの異なる経験を生かしてお互いに切磋琢磨し、活躍を続ける。筆者の鈴木は、今年4月にISOWAに入社以来、経理の仕事に携わる。プライベートでは、ジャンルを問わない読書家であると同時に、大の格闘技フリーク。冷静沈着でありながら、優しい心をもつ好青年。
「旋盤の勉強をしたかったんです」松井は、入社当時の想いを振り返る。それに呼応するかのように、梶田も語り始めた。「僕は、もともとは設計をやりたいと思っていました」

 昭和41年、ザ・ビートルズが初の来日公演を果たしたこの年、ふたりはそれぞれの希望を胸にISOWAの門をたたいた。設計を志し入社してきた梶田だが、配属された先は工作課。待ち受けていたのは、フライス盤を扱う毎日だった。自分が使う工具を自分で作ったりするうち、楽しさを感じるようになっていた。「仲間と読んでいた雑誌に、『技能検定』というのが載っていてね。受けてみようかな、なんて思っていたんです」

 そんな矢先、生産技術部へと異動になった。折しも、『プリスロのISOWA』として名を馳せていた時期。プリスロの検収作業をする日々が続いた。また、会社として特許に目を向け始めたのも重なり、特許関係の仕事をすることもあった。「みんなと違う仕事ができて、毎日が楽しかったですね。やりたかった設計はあまりできませんでしたけど。機械っておもしろいな、と思うようになりました」

  一方の松井は、3ヶ月の実習を終えると念願の旋盤へ。ところが「初日に掃除をしただけで、すぐに設計に回されてしまったんです」旋盤士を父に持つ松井は、旋盤の技術を学ぶため、ISOWAに入社してきたのだった。「でも、希望通り旋盤をやっていたら、今ここにいなかったかもしれません。だから、設計に行ったのも良かったのかもしれませんね」

忙しい日々

左端が、生産技術時代の梶田。機械の検査や、特許関係の業務にあたっていた。
梶田は、生産技術から技術へ移り、工場のレイアウトを学んでいた。「コルゲータの据付のために、東京に出張していたんです。えーっと、ちょうど創業者の源一さんが亡くなった頃で・・・」
「7月末くらいじゃなかったかな」
「そう、それくらいの時期だ。暑い時期でした。急に呼び出しを受けたんです。東京サービスに行ってくれと言われました」突然の辞令だった。
「迷いましたよ。東京に行って、自分に何ができるんだろうって。家族もいるので、返事までに1週間いただいたんです。考えた結果、行くことにしました。勉強のためだと思って」

 サービスでの業務は、機械だけが相手ではない。お客様への対応にも気を遣わなくてはいけなかった。「胃が痛い日々でした。最初は、お客様とどうやって話していいのかわからなかったですし。それに東京は人が少なかったから、ひとりひとりの仕事量が多かったんです」午前中に伝票を整理し、午後はお客様の元へ行き、夜になってから部品の手配をする。「お金を使う暇が無いくらい忙しかったから、良かったには良かったんだけどね」そんな日々を3年間過ごした。

「サービスで据付・修理業務をやって、設計の難しさを実感しました。作ってみないと不具合がわからないという側面もありますから」その後、営業技術として名古屋に戻った。「名古屋に戻ってから、図面は描いていないですね」笑いながら言った。

技術力はお客様に育てていただいた

欧州方面出張時にお客様と共に。右端が松井。左から2番目は磯輪英一(現相談役)、右から2番目は足立宇央(平成18年3月17日号掲載の「ISOWAビトの物語」第5回第2話にて紹介)。
「梶田さんが、まだ東京にいる頃だったかな。」かわって、松井が語りだす。「子どもが中学生のときに、東京に転勤してもいいかなと思ったんです。ディズニーランドも近くなるし」転勤してもいいという意思は会社に伝えた。会社から打診こそあったが、結局立ち消えになった。「行っていれば、梶田さんの後任の後任だったのかな」

 梶田が東京に赴任している間も、ずっと設計に携わっていた。「自分が作った機械はほとんど無いから、これまでを振り返ってみても、これは!!という記憶は無いんだけど」そう前置きしてから言った。「ISOWAの機械はお客様に育てていただいてきたと強く思います」設計を通じてお客様と長年かかわってきた経験からくる実感だ。

  ISOWAの技術が追いついていかないのではないか、と思えるような高い要求をされたこともあった。設計図を見た段階で不備を指摘され、叱責されたこともあった。「問題があったら、みんなで補い合って、改善して。それを繰り返してきたから、今がある。特にコルゲータはそうやって育ってきたんじゃないかな」
「『絶対無理だ』って言われたことでも、お客様の要望でやってみたらできたこともありました」梶田もそう付け加えた。
「機械を良くするために、お客様が協力して下さるというのはとてもありがたいことです」

積み上げてきたもの

「一緒に仕事をしたことは、ほとんど無かったね」
「そうだね。僕は半分営業みたいな感じで、松井さんは、ずっと設計だから」
「僕も、技術屋って感じじゃなくなってきたけどね」

  梶田治三と松井尋喜。
同じ年に同じ会社に入社したふたりのISOWAビト。
歩んできた道は別々だった。しかし、お客様とともに積上げてきたISOWAの技術への自信は同じだ。
「『ISOWAに頼めば何とかしてくれる』そう思っていただける技術力があると自負している」
「自分達のやっていることに自信を持っていいと思う」
そう語るふたりは、これからも、それぞれにISOWAを盛り上げていく。同じ自信を胸に抱きながら。




   文中敬称略