平成18年8月17日号
第3回 それぞれの道、お客様と共に始まりのとき
昭和41年、ザ・ビートルズが初の来日公演を果たしたこの年、ふたりはそれぞれの希望を胸にISOWAの門をたたいた。設計を志し入社してきた梶田だが、配属された先は工作課。待ち受けていたのは、フライス盤を扱う毎日だった。自分が使う工具を自分で作ったりするうち、楽しさを感じるようになっていた。「仲間と読んでいた雑誌に、『技能検定』というのが載っていてね。受けてみようかな、なんて思っていたんです」 そんな矢先、生産技術部へと異動になった。折しも、『プリスロのISOWA』として名を馳せていた時期。プリスロの検収作業をする日々が続いた。また、会社として特許に目を向け始めたのも重なり、特許関係の仕事をすることもあった。「みんなと違う仕事ができて、毎日が楽しかったですね。やりたかった設計はあまりできませんでしたけど。機械っておもしろいな、と思うようになりました」 一方の松井は、3ヶ月の実習を終えると念願の旋盤へ。ところが「初日に掃除をしただけで、すぐに設計に回されてしまったんです」旋盤士を父に持つ松井は、旋盤の技術を学ぶため、ISOWAに入社してきたのだった。「でも、希望通り旋盤をやっていたら、今ここにいなかったかもしれません。だから、設計に行ったのも良かったのかもしれませんね」 忙しい日々
「7月末くらいじゃなかったかな」 「そう、それくらいの時期だ。暑い時期でした。急に呼び出しを受けたんです。東京サービスに行ってくれと言われました」突然の辞令だった。 「迷いましたよ。東京に行って、自分に何ができるんだろうって。家族もいるので、返事までに1週間いただいたんです。考えた結果、行くことにしました。勉強のためだと思って」 サービスでの業務は、機械だけが相手ではない。お客様への対応にも気を遣わなくてはいけなかった。「胃が痛い日々でした。最初は、お客様とどうやって話していいのかわからなかったですし。それに東京は人が少なかったから、ひとりひとりの仕事量が多かったんです」午前中に伝票を整理し、午後はお客様の元へ行き、夜になってから部品の手配をする。「お金を使う暇が無いくらい忙しかったから、良かったには良かったんだけどね」そんな日々を3年間過ごした。 「サービスで据付・修理業務をやって、設計の難しさを実感しました。作ってみないと不具合がわからないという側面もありますから」その後、営業技術として名古屋に戻った。「名古屋に戻ってから、図面は描いていないですね」笑いながら言った。 技術力はお客様に育てていただいた
梶田が東京に赴任している間も、ずっと設計に携わっていた。「自分が作った機械はほとんど無いから、これまでを振り返ってみても、これは!!という記憶は無いんだけど」そう前置きしてから言った。「ISOWAの機械はお客様に育てていただいてきたと強く思います」設計を通じてお客様と長年かかわってきた経験からくる実感だ。 ISOWAの技術が追いついていかないのではないか、と思えるような高い要求をされたこともあった。設計図を見た段階で不備を指摘され、叱責されたこともあった。「問題があったら、みんなで補い合って、改善して。それを繰り返してきたから、今がある。特にコルゲータはそうやって育ってきたんじゃないかな」 積み上げてきたもの「一緒に仕事をしたことは、ほとんど無かったね」「そうだね。僕は半分営業みたいな感じで、松井さんは、ずっと設計だから」 「僕も、技術屋って感じじゃなくなってきたけどね」 梶田治三と松井尋喜。 |